ビリヤードと保育の日々

保育しながらの気づきや、ビリヤードのことを綴ってます。

家庭は大事か〜保育論12〜

よく言われる、「親の愛情」「家庭のぬくもり」。

さて、言われているほど大事なのだろうか?

大事かそうじゃないかで言えば大事かもしれない。しかしそれに固執し過ぎてないか?

はっきり言って、家庭に固執し過ぎれば、子どもからしたら、ただただ鬱陶しいだけだろう。

もしかしたら発達障がい関係もここに関わるものがあるのではないか。

親が子どもに異常な愛(執着)を、与えれば、それこそ家庭に閉じ込められ、まさに自閉的になるのではないか。

あるいは過剰な愛が憎しみと化し、親が子を、子が親を殺めることに発展だってしている。

家庭に固執しだしたのが、おおよそ経済成長しだしたあたり。資本主義があからさまになり、核家族化が進み、あらゆる問題が露呈してきた。

なんだか矛盾が見えてくる。

ここにカラクリがある。

オープンな社会であれば、みんなの視点(愛情)は子ども一点に集中される。十分な愛に満たされる。

核家族化して、クローズな社会になれば、我が子を守ろうと、親の視点(愛情)は散漫になる。あるいは、偏った愛情により子どもは押し潰される。

果たして今の家庭主義でいいのだろうか?

 

子どもを閉じ込めるな〜保育論11〜

子ども子育ての制度の改変で、確かに子どもの育成に関するものは充実してきた。
その施設の在り方について疑問がある。
各々の施設が成り立つには、当然子どもの登録がいる。そして施設が増えるほど、当然子どもの確保(奪い合い)になる。子どもの人数で補助額が変わるのだから、当然と言えば当然だ。
しかしここに捻れが発生する。
保育方針や、子どもへの還元がその差に影響するのであれば、ごもっともだろう。
だが実際は、結局「便利さ」「預けっぱ」の親と事業者主観で、つまり施設と保護者の「利害の一致」で成り立ってしまっている。
親を主観にすることで、事業者は利益を得るために子どもを寄せ集めて、閉じ込めてしまっている。
無事に施設に預けられて鳥カゴに閉じ込められてしまう子ども。施設が空かず家計は苦しいが、待機児童となり、家族で暖かく過ごす子ども。
何が幸せなのだろう。
行政が、事業者が親のために綺麗事の御託を並べたところで、子どもの幸せに繋がるのだろうか。
もう一度、何がメインなのか見直すべきではないだろうか。

なぜ子どもの時の体験が良いのか〜保育論〜⑩

今回は、なぜ子どもの時の体験が良いのかという観点から見ていきたい。
子どもの時の体験は、何かと後々役に立つ。スポーツにしろ、自然体験にしろ、ほぼ確実に活きる。
まぁ、なんとなく当たり前のことなのだが、そこを深くみていきたい。
まずは仕組みだろう。
大人の場合、何かする時に、理由を付けたがる。そしてやる前に仕分けしてしまう。良いか悪いかで、やる前から結論を出してしまう。
そして、する機会があっても、ほぼ何も身に付かずに終わる。
子どもはどうだろう。
理由なんていらない。本人が気づかないうちに、既に根拠を解っている。
やる事自体に感受性を働かせ、その時その時に何かを学んでしまっている。
インプットの違いとでもいうか。

気づいてないが、意思はある。興味がある。だからいつの間にか学んでしまう。
いや、まさにこれが学ぶということだ。

その観点で言うと、最近テレビに出る「東大◯◯学部に子どもを全員受からせた」とか紹介されるおばちゃん、何を自惚れてるのだろうと思う。
別にやり方を否定しないし、文句があるワケではないけど、やり遂げたのは子どもだろと言いたい。
どうしようもない親だから、子どもが学べたのかもしれない。あのおばちゃんの話的には、勉強以外を学べてないのかもしれないが。
お手伝いとかしなくても、家事はのちのち出来るようになればいいと言っているが、家事のための家事の手伝いではないのだ。
子どもを育てるというのは、育成であり、作成ではない。
自分を持たない子どもの親ほど、自分主張が強い。
どうしてこうも、子どもの貴重な体験を操作したがるのだろう。

それほどまでに、子どもの時の体験は重要なのだ。
子どもが主役で学べる環境をもっと作ってほしい。



ゲームは悪か〜保育論⑨〜

テレビゲームやDSなどの携帯ゲーム、そしてスマホゲームは、思考回路を狭めてしまう。
例えて言うなら、犬が味が濃いものを食べると、ドッグフードを食べなくなるのと同じで、ゲーム以外の遊びの発想を無くしていく。
やはり特に10歳・思春期までは、白紙のノートに何でも書き込める状態なわけで、簡単・単純なモノで書き込んでしまっては、動物的思考になってしまう。
だが、決してゲームが悪いとは言わない。
今あるもの、今の時間、今のメンバー、その時々で考えた先の選択ならば、ゲームも一つの立派な遊びである。
問題は、そこに行き着くまでの道のりである。
そこを無視して、ゲームが良いか悪いかなんて、不毛の論争だ。
大人がそこを無視してゲームを与え、子どもの思考を狭めておきながら、ゲームは悪だ、今どきの子どもは、と言うのはなんだか違う。
果たしてゲームが悪なのだろうか。

気づかせること〜保育論⑧〜

気付き、ひらめき、発見。
これらは、頭と身体に大きく刻まれる。
この一瞬で、出来なかったことや、わからなかったことが、あっさりと身に付いてしまう。
勉強でもスポーツでも、この「そうだ!」「そうだったのか!」で、世界は一変する。
これは保育ではとても大事な要素で、どんなに大人が礼儀、挨拶、マナー、勉強を叩き込もうが、諸刃の剣にしかならない。
例えば元気よく挨拶ができる子は、元気よく挨拶をした時、された時に、その清清しさ、気持ち良さに「そうか!」と気付いたからするようになる。
大人が模範になるというが、杓子定規なことをしたところで、子どもは何も感じないし、模範にしたところで、猿真似でしかないだろう。
本当の模範は、どんな不器用な形でも、心に働きかけ、「そうか!」の発見をもたらすキッカケにならなければ意味がない。

「気付き」や「発見」の気持ち良さというか、新しい世界を実感するから身につく。
ほんの小さな体験でも、ほんのくだらない体験でも、子どもの中ではこれほどの大きな動きがある。
世界が変わるというか。

これが成長というものなのではないか。
ぜひ、保育者には、子どもにいろいろ詰め込んでいくのではなく、子どもに気づかせる働きかけをしてほしいと思う。


本当に必要なモノ〜保育論⑦〜

今回は「甘え」について。

まず、甘えとは?
まぁ、甘えを需要とするなら、供給は愛情でしょう。
そう、「甘え」は、求めてきた時に初めて「甘え」となる。欲するから求めてくる。
それに対して、最善の愛情を供給することで、子どもは満たされる。
なにもおもちゃを欲することが甘えでないし、それを買ってやることが愛情ではない。
いわゆる甘やかし。
ここを履き違えている親は結構いる。
単純に解っていない親もいるし、多忙な時代にそうせざるを得ない親もいる。
当然この結果、子どもは「ワガママ言えば、駄々こねれば、やりたい事ができる、欲しい物がもらえる」脳になる。
そう。イマドキの子が出来上がる。

足りない物が簡単に手に入れば、考えることをしなくて済む。
手に入らない環境に置かれれば、考えることができず、遊べなくなる。さらに、不満をグチり、負のスパイラルとなる。
親が良かれとモノを与え過ぎることで、考える脳を閉ざしていくことになる。

幼少期の「甘え」には、これほどのことが詰まっている。
安易に、親が考えずにいると、考えない子どもを育ててしまう。

忙しさを言い訳にしてきた大人達は、「イマドキ」というレッテルを付けて子どもに責任転換している。
今一度、大人達は振り返り、省みてもいいのではないか?