ビリヤードと保育の日々

保育しながらの気づきや、ビリヤードのことを綴ってます。

「家族」という枠の柵

最近ニュースなどを見ていると、増えてきたように思う事件。家族同士の殺人事件。少年少女の殺人事件。
メディアの発達の関係でというのもあるのかもしれないが、やはり増えているのだろう。

身近にも予備群的なお母さんがいた。
若くして子どもを産み、一生懸命育ててきたのだろうが、ある日男を作り、半同棲生活をしだした。
その日から男主観の生活になりだした。
子どもは二の次だ。子どもは子どもで、お母さんを離したくないから、家なのに社交辞令みたいな生活をしている。
本心は早く出て行けぐらい思っている。
何しろ前触れもなく半同棲なのだから。
まずはせめて子どもが心を許してからだろう。子どもからしたら余所者でしかない。
そんな人とお母さんがイチャイチャしていたら、地獄でしかない。虐待と言ってもいい。

さて、問題はここからだ。
温かい家族。聞こえはいい。
しかし、逆に考えれば、温かい地域は無理なのか?
温かい地域となれば、最初に述べた問題もゼロに等しくならないか?
家庭が牢屋で、流行りの「絆」が鎖ではないか?
どんなに家庭が温かくても、地域が冷めていれば居心地が良いはずがない。だから引きこもり的な方が楽になる。
核家族が問題なのではなく、核家族が解放される術がないのが問題なのだ。
だから3人暮らしの核家族でも、精神的なぎゅうぎゅう詰めの居心地の悪さから何かしらの問題が起きやすくなる。家族が鬱陶しくなる。
一昔前みたいに、物理的にぎゅうぎゅうな大家族でも、例え貧乏でも幸せに暮らせていたのだもの。
地域で解放されるから。

どんなに親に子育てを応援しても、「家族」という柵に縛られていれば、虐待がおこる。どんなに専門家が子どものケアをしても、「家族」という柵に縛られていれば、引きこもりになる。非行に走る。
ちなみに東日本大震災の被害地域の人が、今のように頑張れるのは、「絆」なんかじゃない。大津波によって、家を奪われ、町を奪われ、しかしそれが柵を取っ払い解放されたから、みんなで力を合わせて生きていけてるのだ。
少なくとも私はそう思う。なんとも皮肉なことだ。

行動の意味〜保育論⑥〜

子どもが何かする時、というか行動を起こした時。
大人の目から言えば、良いこと、普通のこと、悪いこと。
良いことをすれば褒め、悪いことをすれば叱り、いわば二項対立。
家庭での育児の時点で二項対立のしがらみに縛られていく。
だが一概に親に原因とはいえない。社会という塊が生まれ、戦争などを経験し、高度成長などを迎え、ゆがみながらで狂っていった歴史がある。

特に高度成長あたりを境に、学歴であったり、資本であったり、二項対立の制度的思考が根付いていった。
ユダヤ陰謀論など、様々な陰謀論があるが、全てが憶測に過ぎないともいえない。
だいたい良いか悪いかなんて、時代と共に変貌してゆく中で、その二項に当てはめること自体ナンセンスなワケで。
価値観を植え付けてしまうというか。

話が膨らみ過ぎたが、子どもが起こす行動には、二項で済まされない背景がある。
良いか悪いかで済ませちゃいけないのだ。
結果として良いか悪いかを学び、子どもが子どもなりに咀嚼して判断することが学習といえるのではないか。
無限の可能性を持って産まれてきた子どもを、有限にしてしまっているのは大人なのではないか?
そしてそれにイチャモン付けて、子どもの居場所を、狭めているのではないか?
子どもの行動には、良いか悪いかで測れない裏側がある。
そこを汲み取れない大人が、親が、育児をできるはずがない。
大人はこの二項対立のワナに、気づかなくてはならない。

世の中をわかったつもりで狭い視野でしか物事を見ることができないそこらの大人より、真白な頭で物事の全てを無から見ることができる子どもの方が美しい考えを持っている。
そう、今の育児は、ねじれ育児になっている。



上手さと強さ、そして巧さ

長崎でビリヤードのちょっと大きな大会(プロは出ないのでオープン戦ではないが、九州各地から集まるから準オープンといったところか)に参加した。
前日までにそこそこ仕上げられたと思ってたんだが…
負け負けの予選落ち。
決して勝てない試合ではなかったのだけれど。
感想としては、まだまだ弱い。技術は付いて、確実に上手くはなっているけど、上手いだけじゃ勝てない。
強さが必要。強さが伴って、上手さは巧さとなる。
ここが厄介なところで、当然練習にはお金がかかるし、その練習では「上手さ」は伸びるが「強さ」は付かない。
「強さ」はやはり、負けると失うものがないと付いてこない。
となると、自分よりレベルが上の人と、「失うと困るもの」を賭して、相手をしてもらうしかない。
それを考えると、世界のトッププロはヤベーな!!と思いながらも…
練習だ!!!

10歳の壁〜保育論⑤〜

今回は思春期よりもっと絞って、10歳の壁のピンポイントにスポットを当てて書きます。
職場の学童保育でも、4年生に上がった(特に女子)子が、流動的な心に悩みながら日々、成長していっております。
10歳というのはホントに特別で、急激に身体や心が変化して、頼りたいはずの大人(親)に反抗してしまうわ、でも自分じゃ何がなんだかわからないわで、混乱してしまいます。
しかもその混乱に自分で気づけないから、周りの友達と辛さの共有もできない。
そんな混沌の中を生きていく歳なのです。

葛藤の中で
それでも、子どもはすごい。
先述した混乱は、同じレベルのものを大人が直面したらヒステリーものですよ。
これを乗り越えようとしながら、それこそ学童保育の中で言えば、お兄ちゃんお姉ちゃんとしてしっかりしていくんです。
たいしたものですよ。

サナギから蝶へ
いわば10歳付近はサナギの時期ですね。
このサナギの時期の心の動きを見ていると、とても面白いんですよ。
たった1年そこらで、この大きな混乱を、いつの間にか咀嚼して、これもまた本人が気づかぬうちに解決してしまっているんです。
イヤでも解ってしまうというか。
この混乱を乗り越えた子どもの表情は清々しさ極まりないです。
学童保育では、1日生活が1カ月続く夏休みの前と後で顕著です。

いやぁ、保育は面白い。

もう一歩先へ〜保育論④〜

解決する力
ケンカやイジメ。ケンカは特に保育・教育の現場では日常茶飯事ですよね。
先に手を出した方、多数の方が悪になりがちですね。
確かにそうなのですが、悪になった側を怒って、謝らせて、はいおしまい。
これが保育になるのか?と言いたい。
保育者が余裕を持って、両者の背景を汲み取って、何がそうさせたのか…保育者が思考を止めてはいけないのです。
悪を作って、やった方を謝らせて、やられた方を納得させて、解決したように見せても何も変わらない。
これこそ二項対立脳を作る原因です。
その上、ケンカになった時に自ら解決する力は育たない。

見守る
この場合、保育者のスキルとして必要なのは、見守る力とタイミングを見計らって諭す力。
だいたいのケンカは、双方が引っ込みがきかなくなってしまっているだけで、キッカケや本質からズレていくから激しくなるワケです。
このタイミングを逃さずに気づかせてあげれば、案外すんなりいくものです。
見守る力は大事なのです。

ブレーキ
保育者が焦らず気づかせていくことで、いずれ子ども自身に「ちょっと待てよ?」のブレーキが付きます。
すると本当の意味で自分たちで解決する力がついてきます。
この力は後々の少年犯罪などにも影響していくのではと思います。

子どもは善悪関係なく学びます。
善を押し付けることが保育ではない。
悪を裁くことが保育ではない。
その中から子どもが見極めて、取捨選択して身につけていける環境を作ることが保育なのでしょうね。
子どもの心の、もう一歩先へ行きましょう。

ビリヤード(インドアスポーツ)の面白さ

今回はやっとビリヤードの話題で。
ビリヤードやダーツ、ボーリングなどのインドアスポーツは、メンタルスポーツとも言われます。
ある程度の技術が身に付いてきたあたりから、メンタル、つまり精神力が勝負を決めることも多くなるんですね。
大袈裟に言えば、すっげー上手いけど弱い人、下手くそだけど強い人みたいな。
さらに、自分がミスをしなければ、相手に触らせることなく勝つこともできるし、その逆も同じく。
攻撃と守備という概念とはまた違う勝負なんです。
ただ、弱いから間違いだとか、下手いから間違いだとかいうのは無いんです。やりたい事と、やってる事が矛盾しなければそれは正解なんです。
よくなりがちなのが、勝負にこだわるのに、一人でばかり練習してしまう。いざ試合に出ると、何一つ自分の見せ場なく負けてばかり。
魅せたいのに人とばかりやって、出来もしないことばかりしようとする。
ただ、自分じゃ気づきにくい部分もあるんです。
自分は最初は前者でしたねぇ…。
勝ちたい人は強くなればよく、魅せたい人は上手くなればいい。そこがズレてなければ間違いはない。
そういうスポーツです。
人間性が滲み出てくる面白いスポーツです。
やめられない。

メディアの怖さ〜保育論③〜

よく子どもの事で、あるいは育児の事で、テレビ(特にアニメ)やゲームは良くないなどと言われます。
さて、何がいけないのか。そう喚く大人ほど、何がいけないか理解していない。
私は保育しながら、テレビやゲームは、むしろ内容と使い方次第では良い事もあると思っております。

では何がいけないと言われる所以なのか。

それは、ニュースなどを受動的に見ることにあるのだと思います。
大人こそテレビに翻弄されている張本人なのです。
「一部」の情報を、例えば少し大きい犯罪をテレビで報道すれば、それを過大に認識し、数ある小さな同類の事件は世に出ない。
また、アニメの暴力シーンが悪影響だと言われたり。ドラゴンボールを見てきた多くの人が犯罪者になってますか?
何が危険か…最近の変にリアル志向な部分では?これはドラマにも言えることですね。

ゲームについて

ゲームもしかり、何がいけないのかというと、ヒマができたら
"とりあえずゲーム"
この短絡的な思考を許す大人が悪いのです。
遊びの一つの選択肢としてゲームがあることは何も問題無いんですよ。
つまりは、親が、大人が、原因を子どもに転嫁してるだけなんです。
そう、大人が大して関わらなくても子どもは育ちます。しっかり育ちます。
何が最近の子どもをおかしくしているのか。
今の大人たちです。