ビリヤードと保育の日々

保育しながらの気づきや、ビリヤードのことを綴ってます。

行動の意味〜保育論⑥〜

子どもが何かする時、というか行動を起こした時。
大人の目から言えば、良いこと、普通のこと、悪いこと。
良いことをすれば褒め、悪いことをすれば叱り、いわば二項対立。
家庭での育児の時点で二項対立のしがらみに縛られていく。
だが一概に親に原因とはいえない。社会という塊が生まれ、戦争などを経験し、高度成長などを迎え、ゆがみながらで狂っていった歴史がある。

特に高度成長あたりを境に、学歴であったり、資本であったり、二項対立の制度的思考が根付いていった。
ユダヤ陰謀論など、様々な陰謀論があるが、全てが憶測に過ぎないともいえない。
だいたい良いか悪いかなんて、時代と共に変貌してゆく中で、その二項に当てはめること自体ナンセンスなワケで。
価値観を植え付けてしまうというか。

話が膨らみ過ぎたが、子どもが起こす行動には、二項で済まされない背景がある。
良いか悪いかで済ませちゃいけないのだ。
結果として良いか悪いかを学び、子どもが子どもなりに咀嚼して判断することが学習といえるのではないか。
無限の可能性を持って産まれてきた子どもを、有限にしてしまっているのは大人なのではないか?
そしてそれにイチャモン付けて、子どもの居場所を、狭めているのではないか?
子どもの行動には、良いか悪いかで測れない裏側がある。
そこを汲み取れない大人が、親が、育児をできるはずがない。
大人はこの二項対立のワナに、気づかなくてはならない。

世の中をわかったつもりで狭い視野でしか物事を見ることができないそこらの大人より、真白な頭で物事の全てを無から見ることができる子どもの方が美しい考えを持っている。
そう、今の育児は、ねじれ育児になっている。