ビリヤードと保育の日々

保育しながらの気づきや、ビリヤードのことを綴ってます。

そもそもの間違い〜保育論14〜

子育て支援だとか、ゆとり教育だとか、「国を挙げて」と言っているが、結局効果は見えていない。

それどころか、「脱ゆとり」の反動が今の子どもを押しつぶしかねない。

そもそも、子育て支援を受けるのにお金がかかったり、「ゆとり」と言いながら先生側がテンパってしまっている。元も子もない。

本来「ゆとり」とは、空間的、思考的に余白があることであるはずだ。

それで初めて、創造的な教育や、創造的な成長へと繋がるはずだ。

土曜日を休みにして「ゆとり」だなんて、大人の一方的な逃避でしかない。匙を投げたも同然だ。土曜日は子どもに関わりません、ご家庭でどうぞ。と言ってるようなものだ。

学活や学校行事等で人と関わりあう時間を増やすことこそ心の「ゆとり」が持てていくと思うのだが。

ゆとり=自由時間みたいな安直でバカな思考しかしない政治家が子育てを語らないでほしい。

子どもも被害者だし、教師もある意味被害者かもしれない。

勘違いしてはいけない〜保育論13〜

改めて思った。

保育とは見届けることであって、遠い近い関係なく、将来を導いていく(決める)ことではない。

「非行に走らないように」なんて偉そぶっているのが保育ではない。

そりゃ、暴力を受けたり、命の危機にさらされないように守ることは必要だ。

しかし子どもは、子ども自身が見る世界にときめき、親や保育者では手の届かない世界に行ってしまう。

自分も仕事しながら、手を焼いたというか、心配な子は、過度な情を持ってしまい、大きなお世話をしてしまう。

でも、子どもの人生は、その子どもが作るんだよなぁ。つくづく思った。

見届けて、「あとは任せたよ」が保育なんだよなぁ。

家庭は大事か〜保育論12〜

よく言われる、「親の愛情」「家庭のぬくもり」。

さて、言われているほど大事なのだろうか?

大事かそうじゃないかで言えば大事かもしれない。しかしそれに固執し過ぎてないか?

はっきり言って、家庭に固執し過ぎれば、子どもからしたら、ただただ鬱陶しいだけだろう。

もしかしたら発達障がい関係もここに関わるものがあるのではないか。

親が子どもに異常な愛(執着)を、与えれば、それこそ家庭に閉じ込められ、まさに自閉的になるのではないか。

あるいは過剰な愛が憎しみと化し、親が子を、子が親を殺めることに発展だってしている。

家庭に固執しだしたのが、おおよそ経済成長しだしたあたり。資本主義があからさまになり、核家族化が進み、あらゆる問題が露呈してきた。

なんだか矛盾が見えてくる。

ここにカラクリがある。

オープンな社会であれば、みんなの視点(愛情)は子ども一点に集中される。十分な愛に満たされる。

核家族化して、クローズな社会になれば、我が子を守ろうと、親の視点(愛情)は散漫になる。あるいは、偏った愛情により子どもは押し潰される。

果たして今の家庭主義でいいのだろうか?

 

子どもを閉じ込めるな〜保育論11〜

子ども子育ての制度の改変で、確かに子どもの育成に関するものは充実してきた。
その施設の在り方について疑問がある。
各々の施設が成り立つには、当然子どもの登録がいる。そして施設が増えるほど、当然子どもの確保(奪い合い)になる。子どもの人数で補助額が変わるのだから、当然と言えば当然だ。
しかしここに捻れが発生する。
保育方針や、子どもへの還元がその差に影響するのであれば、ごもっともだろう。
だが実際は、結局「便利さ」「預けっぱ」の親と事業者主観で、つまり施設と保護者の「利害の一致」で成り立ってしまっている。
親を主観にすることで、事業者は利益を得るために子どもを寄せ集めて、閉じ込めてしまっている。
無事に施設に預けられて鳥カゴに閉じ込められてしまう子ども。施設が空かず家計は苦しいが、待機児童となり、家族で暖かく過ごす子ども。
何が幸せなのだろう。
行政が、事業者が親のために綺麗事の御託を並べたところで、子どもの幸せに繋がるのだろうか。
もう一度、何がメインなのか見直すべきではないだろうか。

ビリヤード九州オープン〜ちょっと休憩〜

去年より、ビリヤード九州オープンがハウステンボスで開催されることとなった。
今年も6月に開催される。
オープン戦なのでプロも参戦する。
エントリーできたらチャレンジしてみようかな…

なぜ子どもの時の体験が良いのか〜保育論〜⑩

今回は、なぜ子どもの時の体験が良いのかという観点から見ていきたい。
子どもの時の体験は、何かと後々役に立つ。スポーツにしろ、自然体験にしろ、ほぼ確実に活きる。
まぁ、なんとなく当たり前のことなのだが、そこを深くみていきたい。
まずは仕組みだろう。
大人の場合、何かする時に、理由を付けたがる。そしてやる前に仕分けしてしまう。良いか悪いかで、やる前から結論を出してしまう。
そして、する機会があっても、ほぼ何も身に付かずに終わる。
子どもはどうだろう。
理由なんていらない。本人が気づかないうちに、既に根拠を解っている。
やる事自体に感受性を働かせ、その時その時に何かを学んでしまっている。
インプットの違いとでもいうか。

気づいてないが、意思はある。興味がある。だからいつの間にか学んでしまう。
いや、まさにこれが学ぶということだ。

その観点で言うと、最近テレビに出る「東大◯◯学部に子どもを全員受からせた」とか紹介されるおばちゃん、何を自惚れてるのだろうと思う。
別にやり方を否定しないし、文句があるワケではないけど、やり遂げたのは子どもだろと言いたい。
どうしようもない親だから、子どもが学べたのかもしれない。あのおばちゃんの話的には、勉強以外を学べてないのかもしれないが。
お手伝いとかしなくても、家事はのちのち出来るようになればいいと言っているが、家事のための家事の手伝いではないのだ。
子どもを育てるというのは、育成であり、作成ではない。
自分を持たない子どもの親ほど、自分主張が強い。
どうしてこうも、子どもの貴重な体験を操作したがるのだろう。

それほどまでに、子どもの時の体験は重要なのだ。
子どもが主役で学べる環境をもっと作ってほしい。