ビリヤードと保育の日々

保育しながらの気づきや、ビリヤードのことを綴ってます。

ゲームは悪か〜保育論⑨〜

テレビゲームやDSなどの携帯ゲーム、そしてスマホゲームは、思考回路を狭めてしまう。
例えて言うなら、犬が味が濃いものを食べると、ドッグフードを食べなくなるのと同じで、ゲーム以外の遊びの発想を無くしていく。
やはり特に10歳・思春期までは、白紙のノートに何でも書き込める状態なわけで、簡単・単純なモノで書き込んでしまっては、動物的思考になってしまう。
だが、決してゲームが悪いとは言わない。
今あるもの、今の時間、今のメンバー、その時々で考えた先の選択ならば、ゲームも一つの立派な遊びである。
問題は、そこに行き着くまでの道のりである。
そこを無視して、ゲームが良いか悪いかなんて、不毛の論争だ。
大人がそこを無視してゲームを与え、子どもの思考を狭めておきながら、ゲームは悪だ、今どきの子どもは、と言うのはなんだか違う。
果たしてゲームが悪なのだろうか。

気づかせること〜保育論⑧〜

気付き、ひらめき、発見。
これらは、頭と身体に大きく刻まれる。
この一瞬で、出来なかったことや、わからなかったことが、あっさりと身に付いてしまう。
勉強でもスポーツでも、この「そうだ!」「そうだったのか!」で、世界は一変する。
これは保育ではとても大事な要素で、どんなに大人が礼儀、挨拶、マナー、勉強を叩き込もうが、諸刃の剣にしかならない。
例えば元気よく挨拶ができる子は、元気よく挨拶をした時、された時に、その清清しさ、気持ち良さに「そうか!」と気付いたからするようになる。
大人が模範になるというが、杓子定規なことをしたところで、子どもは何も感じないし、模範にしたところで、猿真似でしかないだろう。
本当の模範は、どんな不器用な形でも、心に働きかけ、「そうか!」の発見をもたらすキッカケにならなければ意味がない。

「気付き」や「発見」の気持ち良さというか、新しい世界を実感するから身につく。
ほんの小さな体験でも、ほんのくだらない体験でも、子どもの中ではこれほどの大きな動きがある。
世界が変わるというか。

これが成長というものなのではないか。
ぜひ、保育者には、子どもにいろいろ詰め込んでいくのではなく、子どもに気づかせる働きかけをしてほしいと思う。


本当に必要なモノ〜保育論⑦〜

今回は「甘え」について。

まず、甘えとは?
まぁ、甘えを需要とするなら、供給は愛情でしょう。
そう、「甘え」は、求めてきた時に初めて「甘え」となる。欲するから求めてくる。
それに対して、最善の愛情を供給することで、子どもは満たされる。
なにもおもちゃを欲することが甘えでないし、それを買ってやることが愛情ではない。
いわゆる甘やかし。
ここを履き違えている親は結構いる。
単純に解っていない親もいるし、多忙な時代にそうせざるを得ない親もいる。
当然この結果、子どもは「ワガママ言えば、駄々こねれば、やりたい事ができる、欲しい物がもらえる」脳になる。
そう。イマドキの子が出来上がる。

足りない物が簡単に手に入れば、考えることをしなくて済む。
手に入らない環境に置かれれば、考えることができず、遊べなくなる。さらに、不満をグチり、負のスパイラルとなる。
親が良かれとモノを与え過ぎることで、考える脳を閉ざしていくことになる。

幼少期の「甘え」には、これほどのことが詰まっている。
安易に、親が考えずにいると、考えない子どもを育ててしまう。

忙しさを言い訳にしてきた大人達は、「イマドキ」というレッテルを付けて子どもに責任転換している。
今一度、大人達は振り返り、省みてもいいのではないか?


「家族」という枠の柵

最近ニュースなどを見ていると、増えてきたように思う事件。家族同士の殺人事件。少年少女の殺人事件。
メディアの発達の関係でというのもあるのかもしれないが、やはり増えているのだろう。

身近にも予備群的なお母さんがいた。
若くして子どもを産み、一生懸命育ててきたのだろうが、ある日男を作り、半同棲生活をしだした。
その日から男主観の生活になりだした。
子どもは二の次だ。子どもは子どもで、お母さんを離したくないから、家なのに社交辞令みたいな生活をしている。
本心は早く出て行けぐらい思っている。
何しろ前触れもなく半同棲なのだから。
まずはせめて子どもが心を許してからだろう。子どもからしたら余所者でしかない。
そんな人とお母さんがイチャイチャしていたら、地獄でしかない。虐待と言ってもいい。

さて、問題はここからだ。
温かい家族。聞こえはいい。
しかし、逆に考えれば、温かい地域は無理なのか?
温かい地域となれば、最初に述べた問題もゼロに等しくならないか?
家庭が牢屋で、流行りの「絆」が鎖ではないか?
どんなに家庭が温かくても、地域が冷めていれば居心地が良いはずがない。だから引きこもり的な方が楽になる。
核家族が問題なのではなく、核家族が解放される術がないのが問題なのだ。
だから3人暮らしの核家族でも、精神的なぎゅうぎゅう詰めの居心地の悪さから何かしらの問題が起きやすくなる。家族が鬱陶しくなる。
一昔前みたいに、物理的にぎゅうぎゅうな大家族でも、例え貧乏でも幸せに暮らせていたのだもの。
地域で解放されるから。

どんなに親に子育てを応援しても、「家族」という柵に縛られていれば、虐待がおこる。どんなに専門家が子どものケアをしても、「家族」という柵に縛られていれば、引きこもりになる。非行に走る。
ちなみに東日本大震災の被害地域の人が、今のように頑張れるのは、「絆」なんかじゃない。大津波によって、家を奪われ、町を奪われ、しかしそれが柵を取っ払い解放されたから、みんなで力を合わせて生きていけてるのだ。
少なくとも私はそう思う。なんとも皮肉なことだ。

行動の意味〜保育論⑥〜

子どもが何かする時、というか行動を起こした時。
大人の目から言えば、良いこと、普通のこと、悪いこと。
良いことをすれば褒め、悪いことをすれば叱り、いわば二項対立。
家庭での育児の時点で二項対立のしがらみに縛られていく。
だが一概に親に原因とはいえない。社会という塊が生まれ、戦争などを経験し、高度成長などを迎え、ゆがみながらで狂っていった歴史がある。

特に高度成長あたりを境に、学歴であったり、資本であったり、二項対立の制度的思考が根付いていった。
ユダヤ陰謀論など、様々な陰謀論があるが、全てが憶測に過ぎないともいえない。
だいたい良いか悪いかなんて、時代と共に変貌してゆく中で、その二項に当てはめること自体ナンセンスなワケで。
価値観を植え付けてしまうというか。

話が膨らみ過ぎたが、子どもが起こす行動には、二項で済まされない背景がある。
良いか悪いかで済ませちゃいけないのだ。
結果として良いか悪いかを学び、子どもが子どもなりに咀嚼して判断することが学習といえるのではないか。
無限の可能性を持って産まれてきた子どもを、有限にしてしまっているのは大人なのではないか?
そしてそれにイチャモン付けて、子どもの居場所を、狭めているのではないか?
子どもの行動には、良いか悪いかで測れない裏側がある。
そこを汲み取れない大人が、親が、育児をできるはずがない。
大人はこの二項対立のワナに、気づかなくてはならない。

世の中をわかったつもりで狭い視野でしか物事を見ることができないそこらの大人より、真白な頭で物事の全てを無から見ることができる子どもの方が美しい考えを持っている。
そう、今の育児は、ねじれ育児になっている。



上手さと強さ、そして巧さ

長崎でビリヤードのちょっと大きな大会(プロは出ないのでオープン戦ではないが、九州各地から集まるから準オープンといったところか)に参加した。
前日までにそこそこ仕上げられたと思ってたんだが…
負け負けの予選落ち。
決して勝てない試合ではなかったのだけれど。
感想としては、まだまだ弱い。技術は付いて、確実に上手くはなっているけど、上手いだけじゃ勝てない。
強さが必要。強さが伴って、上手さは巧さとなる。
ここが厄介なところで、当然練習にはお金がかかるし、その練習では「上手さ」は伸びるが「強さ」は付かない。
「強さ」はやはり、負けると失うものがないと付いてこない。
となると、自分よりレベルが上の人と、「失うと困るもの」を賭して、相手をしてもらうしかない。
それを考えると、世界のトッププロはヤベーな!!と思いながらも…
練習だ!!!

10歳の壁〜保育論⑤〜

今回は思春期よりもっと絞って、10歳の壁のピンポイントにスポットを当てて書きます。
職場の学童保育でも、4年生に上がった(特に女子)子が、流動的な心に悩みながら日々、成長していっております。
10歳というのはホントに特別で、急激に身体や心が変化して、頼りたいはずの大人(親)に反抗してしまうわ、でも自分じゃ何がなんだかわからないわで、混乱してしまいます。
しかもその混乱に自分で気づけないから、周りの友達と辛さの共有もできない。
そんな混沌の中を生きていく歳なのです。

葛藤の中で
それでも、子どもはすごい。
先述した混乱は、同じレベルのものを大人が直面したらヒステリーものですよ。
これを乗り越えようとしながら、それこそ学童保育の中で言えば、お兄ちゃんお姉ちゃんとしてしっかりしていくんです。
たいしたものですよ。

サナギから蝶へ
いわば10歳付近はサナギの時期ですね。
このサナギの時期の心の動きを見ていると、とても面白いんですよ。
たった1年そこらで、この大きな混乱を、いつの間にか咀嚼して、これもまた本人が気づかぬうちに解決してしまっているんです。
イヤでも解ってしまうというか。
この混乱を乗り越えた子どもの表情は清々しさ極まりないです。
学童保育では、1日生活が1カ月続く夏休みの前と後で顕著です。

いやぁ、保育は面白い。