ビリヤードと保育の日々

保育しながらの気づきや、ビリヤードのことを綴ってます。

保育(福祉)の仕事 〜保育論20〜

保育は、介護やなんかと同じく「福祉」の世界になる。

「福祉」とは、「幸せ」のことを言う。

まぁ「幸せ」なんて、人により内容も程度も違うから、何かをするとみんなが幸せというものなど無いのだが。

福祉の「仕事」というのが、実に難しい。

「福祉」と「仕事(制度)」を、あやふやに混ぜてしまってはいけない。

そこをお偉いさんがわかっちゃいないから、保育や介護に捻れが生まれる。

そりゃあ、「仕事」と割り切ってできた方が、卒園や卒業、老人の死など、「別れ」の苦しみ悲しみは小さいだろう。

"割り切れないと「燃え尽き症候群」なんかになってしまう…"

果たしてそうだろうか。

「制度」とは、仕組みのことで、流れがきまっている。終わり(死)などない。

終わり(死)がないから、やがて「別れ(死)」を受け入れられず、耐えられなくなる。

心を通わせ、今を感じて我を忘れて接していけば、「別れ(死)」のために頑張れてしまえる。言い換えると、キレイに見送ることができる。「別れ(死)」は「始まり」である。

家族などとの別れを受け入れられるのも、こういうことではないか。

そこからまた始まることができる。

 

「福祉」に「制度」を混ぜ込まないでくれ。

連携 〜保育論19〜

先日、学童保育対抗の、あるスポーツの大会があった。

私の学童保育のチームは、前年優勝しており、「連覇なるか」とテレビ局の取材まで来た。

結果は見事連覇を成し遂げてくれて、それはそれで嬉しいのだが、それは「結果」であり、わたしの中では重要ではない(大会の趣旨がレクレーションでもある)。

今年は酷暑で、なおかつもともと体育館がクラブ活動でいっぱいで、借りにくい状況もあり、大した練習はできていない。メンバーも昨年に比べ低学年メインであった。

そんな中、成し遂げた「中身」が素晴らしかった。

 

それは流行りの「絆」というくだらないものではない。

「絆」というのは、それこそ「役割」を決め、それぞれが決められたことをやる、ということだ。つまり「制度性」の中で役に立つ。これは決められたこと以外はやらない(やれない)。

 

子どもが見せてくれたのは「連携」だ。

「連携」とは、その時その時で、それぞれがやれることをやる、ということだ。

「連携」こそ「ヒト」の真髄であるとでも言えるだろう。

弱い人間が、ここまで進化発展できたのも「連携」によるものではないか。

 

大げさかもしれないが、これは「人間の進化発展」を、表してくれたのではないだろうか。

そして大人が「教えて」育つのではない。共に「感動」して「共有」して「連携」しながら育っていくのだ。

大人は出しゃばらず「後は任せたよ」でいいのだ。

 

 

 

役割? 〜保育論18〜

よく小学校とかで「高学年は低学年のお手本に」とか、「6年生はリーダーだ」とか、「5年生は6年生を支える」とか言っている。

子どもに役割を与えることで、存在意義を持てるのだとか。

そんなことを叩き込んで、大人が「自分は教育できている」と陶酔してるだけではないのか。

だいたいリーダーなんてものは、ヒトの集団には合わない。

支え合ってこその人間なのだ。大震災などでの被災者や国民の動向を見ていればわかることではないか。

役割を持たせて、子どもの視点を自身に向けさせ、周囲に警戒させ、自閉的にさせてしまっているのは他でもない学校などの教育機関なのだ。

苦手なところをフォローし合って、支え合ってこそのヒトの集団なのだ。

強くもない人間が、ここまで星を埋め尽くすほどに繁栄して生きているのは、それがあっての結果なのだ。

周りと連携し合い、感動し合い、共有し合い、支え合ってこそ、無限の成長に、心の成長に繋がるということに、大人は気づく必要がある。

 

 

 

ややこしい「普通」の概念

味や見た目、いろんな感想や印象を表すときに使う「普通」。

その人その人で「普通」の概念を持っており、仮に10段階の何かがあるとする。

ある人は、3が普通。ある人は、6が普通。

このように、十人十色だ。

ただ、「普通」という言葉は、実際には「(普)広く(通)通じる」という意味がある。

つまり、客観的にいう「普通」は、それでいいのだが、主観的な「普通」は、どちらかというと、「ノーマル=自分が思う中くらい」というニュアンスになる。

誰だって他人に「普通は…」とか言われて、イラッとしたり腑に落ちなかったりしたこともあるだろう。

保育福祉の世界で、「みんな一緒」という考え方にカウンターが来てるのは、「ノーマル」を全体に押し付けた形が原因であるのだろう。

 

出会いと別れ 〜保育論17〜

出会いと別れとは、すなわち始まりと終わりだ。

朝目覚めて、朝と出会うことで1日が始まる。人と、友達と出会い、「おはよう」で始まる。

当たり前のことだが、前日に "「さよなら」と人と別れ、「おやすみ」と昨日と別れる。" という「終わり」があるから成り立つ。

「始まり」にこそ "メンタリティの華やぎ" がもたされる。

始める(出会う)のは簡単なことだが、終わる(別れる)ことは難しい。しかし終わることができないと、始まりの華やぎは生まれない。

 

始まりと終わり〜保育論16〜

すべてのことには、始まりと終わりがある。

終わるために始まっている。

極論を言えば、「今」という瞬間は、今始まり、今終わっている。目に入った景色は、終わった「今」を見ている。もうそこにその「今」はない。

でもその時、「今」は始まっている。

世界は、始まりと終わりで成り立っている。始まるから終われるし、終わるから始まることができる。

特に日本は、ここが洗練されており、そこからいろいろな分野に影響していると言っても過言ではない。

保育でもこれは当てはまることで、礼儀・挨拶を叩き込むことなんかしなくても、「今」と別れることができればいい。

叩き込んで強迫観念で挨拶 "しなければならない" ことにならず、

自然と、挨拶を "してしまう" ようになる。

始まりと終わりが大切です。

勝手に育つ〜保育論15〜

前置きしておくが、放置や、ネグレクトのような意味合いではない。

まぁ、それでも育ってしまうのも事実だが、それを肯定は決してしない。

ついこの間、子どもたちのドッジボール大会があった。

毎年夏休みに行われており、毎年私も子どもたちの練習に協力している。

今年は嫌な暑さの長続きや、練習場所の確保の関係で、なかなか練習できなかった。

しかしいざ本番、今まで支援した内容はもちろん、そうでないことまで内容に表してくれた。

一瞬のひらめきというか、一瞬で過去の点が結びつき、線になったというか。

いや、それどころか私の頭になかった工夫までしてみせた。

そして優勝までしてしまった。

 

そう、子どもはプリミティブにひらめき、超高度な次元にいってしまう。

子どもには、感受性の乏しくなった大人ではたどり着けない境地がある。