制度性と無法地帯〜保育論22〜
無法地帯というと、聞こえは悪くなるが、ここで言う「無法地帯」は、子どもの世界(人類にももともと制度性ができる前はそんなものはなかったが)での話だ。
制度性というのは、「善」か「悪」か、「していい」か、「してはダメ」か、あるいは「しなければならない」か。
「権利」や「義務」の上に成り立つ。
簡単に言えば、学校(会社)生活、つまり義務。と、プライベート、つまり権利。
パブリックとプライベートの二項対立が制度性の暮らしなのだ。
ただ、子どもの放課後や休日は、「プライベート」という言葉が実に当てはまらない。
「遊び」は、「パブリック」の対義ではない。
その時そのときの「ひらめき」や、「ときめき」で無造作に時が進む。まさに決まりごとから解き放たれた世界だ。
「遊び」とはそういう時間なのだ。
大人だってお祭りなんかに行けばそういう時間を体験できる。
「二項対立」から解き放たれた時間を過ごせる。
実はこの感覚、時間が重要で、世の大発明なんかはそれこそ「遊び心」から生まれているではないか。
「遊び」から人間は進化発展してきた。
「遊び」こそ人間が人間たるものだ。
大人は子どもからここを学ぶことができる。
「遊び心」を忘れるなかれ。
個人を尊重? 〜保育論21〜
今の時代、「情報化社会」「個人主義」「プライバシー」と騒がれている。
"情報"で全てを管理して、あらゆるものを便利にしていく代償に、それらの漏洩を防ぐために、あらゆるものを閉鎖していく。
お隣さんの名前も何も知らないという事も珍しくない。
「孤独死」という言葉も出てきた。
低所得の家庭が、いろいろ手当なんかを知らないこともしばしばある。
虐待死なんかもよく聞くようになった。
なんだかおかしくないか?
情報化社会、個人主義とは個人に責任を擦り付け、見放す社会、ということなのか?
つまり個人主義とは自閉的思想を産み、今の問題を作り出してはいないか?
この波が子どもに返ってきていると感じているこの頃だ…
保育(福祉)の仕事 〜保育論20〜
保育は、介護やなんかと同じく「福祉」の世界になる。
「福祉」とは、「幸せ」のことを言う。
まぁ「幸せ」なんて、人により内容も程度も違うから、何かをするとみんなが幸せというものなど無いのだが。
福祉の「仕事」というのが、実に難しい。
「福祉」と「仕事(制度)」を、あやふやに混ぜてしまってはいけない。
そこをお偉いさんがわかっちゃいないから、保育や介護に捻れが生まれる。
そりゃあ、「仕事」と割り切ってできた方が、卒園や卒業、老人の死など、「別れ」の苦しみ悲しみは小さいだろう。
"割り切れないと「燃え尽き症候群」なんかになってしまう…"
果たしてそうだろうか。
「制度」とは、仕組みのことで、流れがきまっている。終わり(死)などない。
終わり(死)がないから、やがて「別れ(死)」を受け入れられず、耐えられなくなる。
心を通わせ、今を感じて我を忘れて接していけば、「別れ(死)」のために頑張れてしまえる。言い換えると、キレイに見送ることができる。「別れ(死)」は「始まり」である。
家族などとの別れを受け入れられるのも、こういうことではないか。
そこからまた始まることができる。
「福祉」に「制度」を混ぜ込まないでくれ。
連携 〜保育論19〜
先日、学童保育対抗の、あるスポーツの大会があった。
私の学童保育のチームは、前年優勝しており、「連覇なるか」とテレビ局の取材まで来た。
結果は見事連覇を成し遂げてくれて、それはそれで嬉しいのだが、それは「結果」であり、わたしの中では重要ではない(大会の趣旨がレクレーションでもある)。
今年は酷暑で、なおかつもともと体育館がクラブ活動でいっぱいで、借りにくい状況もあり、大した練習はできていない。メンバーも昨年に比べ低学年メインであった。
そんな中、成し遂げた「中身」が素晴らしかった。
それは流行りの「絆」というくだらないものではない。
「絆」というのは、それこそ「役割」を決め、それぞれが決められたことをやる、ということだ。つまり「制度性」の中で役に立つ。これは決められたこと以外はやらない(やれない)。
子どもが見せてくれたのは「連携」だ。
「連携」とは、その時その時で、それぞれがやれることをやる、ということだ。
「連携」こそ「ヒト」の真髄であるとでも言えるだろう。
弱い人間が、ここまで進化発展できたのも「連携」によるものではないか。
大げさかもしれないが、これは「人間の進化発展」を、表してくれたのではないだろうか。
そして大人が「教えて」育つのではない。共に「感動」して「共有」して「連携」しながら育っていくのだ。
大人は出しゃばらず「後は任せたよ」でいいのだ。
役割? 〜保育論18〜
よく小学校とかで「高学年は低学年のお手本に」とか、「6年生はリーダーだ」とか、「5年生は6年生を支える」とか言っている。
子どもに役割を与えることで、存在意義を持てるのだとか。
そんなことを叩き込んで、大人が「自分は教育できている」と陶酔してるだけではないのか。
だいたいリーダーなんてものは、ヒトの集団には合わない。
支え合ってこその人間なのだ。大震災などでの被災者や国民の動向を見ていればわかることではないか。
役割を持たせて、子どもの視点を自身に向けさせ、周囲に警戒させ、自閉的にさせてしまっているのは他でもない学校などの教育機関なのだ。
苦手なところをフォローし合って、支え合ってこそのヒトの集団なのだ。
強くもない人間が、ここまで星を埋め尽くすほどに繁栄して生きているのは、それがあっての結果なのだ。
周りと連携し合い、感動し合い、共有し合い、支え合ってこそ、無限の成長に、心の成長に繋がるということに、大人は気づく必要がある。
ややこしい「普通」の概念
味や見た目、いろんな感想や印象を表すときに使う「普通」。
その人その人で「普通」の概念を持っており、仮に10段階の何かがあるとする。
ある人は、3が普通。ある人は、6が普通。
このように、十人十色だ。
ただ、「普通」という言葉は、実際には「(普)広く(通)通じる」という意味がある。
つまり、客観的にいう「普通」は、それでいいのだが、主観的な「普通」は、どちらかというと、「ノーマル=自分が思う中くらい」というニュアンスになる。
誰だって他人に「普通は…」とか言われて、イラッとしたり腑に落ちなかったりしたこともあるだろう。
保育福祉の世界で、「みんな一緒」という考え方にカウンターが来てるのは、「ノーマル」を全体に押し付けた形が原因であるのだろう。
出会いと別れ 〜保育論17〜
出会いと別れとは、すなわち始まりと終わりだ。
朝目覚めて、朝と出会うことで1日が始まる。人と、友達と出会い、「おはよう」で始まる。
当たり前のことだが、前日に "「さよなら」と人と別れ、「おやすみ」と昨日と別れる。" という「終わり」があるから成り立つ。
「始まり」にこそ "メンタリティの華やぎ" がもたされる。
始める(出会う)のは簡単なことだが、終わる(別れる)ことは難しい。しかし終わることができないと、始まりの華やぎは生まれない。