ビリヤードと保育の日々

保育しながらの気づきや、ビリヤードのことを綴ってます。

制度性と無法地帯〜保育論22〜

無法地帯というと、聞こえは悪くなるが、ここで言う「無法地帯」は、子どもの世界(人類にももともと制度性ができる前はそんなものはなかったが)での話だ。

  

制度性というのは、「善」か「悪」か、「していい」か、「してはダメ」か、あるいは「しなければならない」か。

「権利」や「義務」の上に成り立つ。

簡単に言えば、学校(会社)生活、つまり義務。と、プライベート、つまり権利。

 

パブリックとプライベートの二項対立が制度性の暮らしなのだ。

 

ただ、子どもの放課後や休日は、「プライベート」という言葉が実に当てはまらない。

「遊び」は、「パブリック」の対義ではない。

その時そのときの「ひらめき」や、「ときめき」で無造作に時が進む。まさに決まりごとから解き放たれた世界だ。

「遊び」とはそういう時間なのだ。

大人だってお祭りなんかに行けばそういう時間を体験できる。

「二項対立」から解き放たれた時間を過ごせる。

 

実はこの感覚、時間が重要で、世の大発明なんかはそれこそ「遊び心」から生まれているではないか。

 

「遊び」から人間は進化発展してきた。

「遊び」こそ人間が人間たるものだ。

大人は子どもからここを学ぶことができる。

「遊び心」を忘れるなかれ。