ビリヤードと保育の日々

保育しながらの気づきや、ビリヤードのことを綴ってます。

ややこしい「普通」の概念

味や見た目、いろんな感想や印象を表すときに使う「普通」。

その人その人で「普通」の概念を持っており、仮に10段階の何かがあるとする。

ある人は、3が普通。ある人は、6が普通。

このように、十人十色だ。

ただ、「普通」という言葉は、実際には「(普)広く(通)通じる」という意味がある。

つまり、客観的にいう「普通」は、それでいいのだが、主観的な「普通」は、どちらかというと、「ノーマル=自分が思う中くらい」というニュアンスになる。

誰だって他人に「普通は…」とか言われて、イラッとしたり腑に落ちなかったりしたこともあるだろう。

保育福祉の世界で、「みんな一緒」という考え方にカウンターが来てるのは、「ノーマル」を全体に押し付けた形が原因であるのだろう。

 

出会いと別れ 〜保育論17〜

出会いと別れとは、すなわち始まりと終わりだ。

朝目覚めて、朝と出会うことで1日が始まる。人と、友達と出会い、「おはよう」で始まる。

当たり前のことだが、前日に "「さよなら」と人と別れ、「おやすみ」と昨日と別れる。" という「終わり」があるから成り立つ。

「始まり」にこそ "メンタリティの華やぎ" がもたされる。

始める(出会う)のは簡単なことだが、終わる(別れる)ことは難しい。しかし終わることができないと、始まりの華やぎは生まれない。

 

始まりと終わり〜保育論16〜

すべてのことには、始まりと終わりがある。

終わるために始まっている。

極論を言えば、「今」という瞬間は、今始まり、今終わっている。目に入った景色は、終わった「今」を見ている。もうそこにその「今」はない。

でもその時、「今」は始まっている。

世界は、始まりと終わりで成り立っている。始まるから終われるし、終わるから始まることができる。

特に日本は、ここが洗練されており、そこからいろいろな分野に影響していると言っても過言ではない。

保育でもこれは当てはまることで、礼儀・挨拶を叩き込むことなんかしなくても、「今」と別れることができればいい。

叩き込んで強迫観念で挨拶 "しなければならない" ことにならず、

自然と、挨拶を "してしまう" ようになる。

始まりと終わりが大切です。

勝手に育つ〜保育論15〜

前置きしておくが、放置や、ネグレクトのような意味合いではない。

まぁ、それでも育ってしまうのも事実だが、それを肯定は決してしない。

ついこの間、子どもたちのドッジボール大会があった。

毎年夏休みに行われており、毎年私も子どもたちの練習に協力している。

今年は嫌な暑さの長続きや、練習場所の確保の関係で、なかなか練習できなかった。

しかしいざ本番、今まで支援した内容はもちろん、そうでないことまで内容に表してくれた。

一瞬のひらめきというか、一瞬で過去の点が結びつき、線になったというか。

いや、それどころか私の頭になかった工夫までしてみせた。

そして優勝までしてしまった。

 

そう、子どもはプリミティブにひらめき、超高度な次元にいってしまう。

子どもには、感受性の乏しくなった大人ではたどり着けない境地がある。

そもそもの間違い〜保育論14〜

子育て支援だとか、ゆとり教育だとか、「国を挙げて」と言っているが、結局効果は見えていない。

それどころか、「脱ゆとり」の反動が今の子どもを押しつぶしかねない。

そもそも、子育て支援を受けるのにお金がかかったり、「ゆとり」と言いながら先生側がテンパってしまっている。元も子もない。

本来「ゆとり」とは、空間的、思考的に余白があることであるはずだ。

それで初めて、創造的な教育や、創造的な成長へと繋がるはずだ。

土曜日を休みにして「ゆとり」だなんて、大人の一方的な逃避でしかない。匙を投げたも同然だ。土曜日は子どもに関わりません、ご家庭でどうぞ。と言ってるようなものだ。

学活や学校行事等で人と関わりあう時間を増やすことこそ心の「ゆとり」が持てていくと思うのだが。

ゆとり=自由時間みたいな安直でバカな思考しかしない政治家が子育てを語らないでほしい。

子どもも被害者だし、教師もある意味被害者かもしれない。

勘違いしてはいけない〜保育論13〜

改めて思った。

保育とは見届けることであって、遠い近い関係なく、将来を導いていく(決める)ことではない。

「非行に走らないように」なんて偉そぶっているのが保育ではない。

そりゃ、暴力を受けたり、命の危機にさらされないように守ることは必要だ。

しかし子どもは、子ども自身が見る世界にときめき、親や保育者では手の届かない世界に行ってしまう。

自分も仕事しながら、手を焼いたというか、心配な子は、過度な情を持ってしまい、大きなお世話をしてしまう。

でも、子どもの人生は、その子どもが作るんだよなぁ。つくづく思った。

見届けて、「あとは任せたよ」が保育なんだよなぁ。

子どもは解っている〜保育論13〜

どんなに、博学な人や、偉そぶった大人が何を言おうが、人間の真理には近づけない。

人間の真理は、子どもが解っている。

結局大人は、社会の制度性や二項対立なんかに、毒されていく。