根本的に〜保育論26〜
日本の昔からの風習というか、少し前ではまさかの運動会のかけっこですら侵食された「みんな一緒」。
まぁ、昔は目立たなかったが、「障がい者」という立場が、福祉のためによかれと認識された結果、ある意味目立つようになった。
名前が付いたことで増えたように思うのか、あるいは実際に増えているのかわからないが、特に発達障害が目立つようになった。
どちらの理由かはわからないが、名前が付いたことで区分分けされ、大人目線からいえば対応はしやすくなったのかもしれない。
しかし子どもからすれば、その区分けが、「異物感」を増長したように思う。
「自閉スペクトラム」の人との付き合いにくさなど、「個性」といいながら、差別を認めてしまうような危険性。
なにせ、「多動を持つ子が授業中に動き回るのを容認する」という、なんだか歪な対応がある。
周りからすれば、基本的にみんなに授業態度を指摘するくせに、意味がわからなくなる。
「障がい者」を「個性」として捉えようとする気持ちが先走り、「個性」と捉えるルーティンを飛ばしてしまっているように思う。
「なぜ違うのか」の保育教育をさせずして、大人が大人の視点で「受け入れよう」なんてするから、子どものモヤモヤは昔よりあるのでは?と危惧してしまう今日この頃。
言わば「人種の違い」の教育より根本的なものが抜けてはいないかと思う。
一点集中 〜保育論25〜
今となっては「発達障がい」は、(ほぼ)世間に認識されている。
大まかに分ければ、
・自閉症
・ADHD
・LD
などなど…
基本的には、先天性で遺伝子に異常があったりとするものだ。
過去には、「変わった子」みたいにスルーされてきた。
それが近年、増えてきている。
出産前に検査できたり、医者の診断をもらったり、症状に基準ができたりと、そこも関わるのもあるだろう。もしかしたら食生活の変化もあるだろう。
しかし私は、もう一つの要因があると思う。
それは一点集中だ。
一つの愛を全力で受けたり、何かに没頭できたり。
今では情報化社会の名の下で、感覚を一点に集中できない社会にある。
育児に関しても例外ではない。
そこにこそ、この問題の根源が眠っている気がする。
親が子どもに一点集中できない。
子どもが興味関心に一点集中できない。
子どもが成長の過程(特に幼少期)で、この過程を経験できないと、自閉症スペクトラムを背負うことになるのではないか。
私はそう思っている。
つまり後天的にも発達障がいは発生する、ということ。
もしかしたら経済(社会)の成長と、子どもの成長は相反するものなのかもしれない。
どっちだ 〜保育論24〜
「今どきの子ども」で言われるのはゲーム、スマホ、いわゆるエンターテイメントとメディアだ。
それらに侵されてしまっているらしい。
テレビニュースで子どもの殺人事件が取り上げられれば、「今どきの子どもは怖い」。
果たしてそうなのか?
未成年による殺人事件は、件数としては昭和前期〜中期が一番多く、まぁ、割合としては大した差はない。
ベビーブームから子どもが増えた時期に、合わせて件数も上がっている。
割合としては一緒なのだ。
無いに越したことはないのだけれど。
ここまで書けば気づくと思うが、子どもが凶悪になったり、おかしくなっているワケではない。
確かに内容としては、昔じゃありえない残忍さのものとかはあるかもしれないが、そこまでなる背景を考えないといけない。
とにかく言いたいことは、メディアに操られているのは、とどのつまり「今どきの大人たち」であるということ。
情報を疑わず真実を知ろうとしない、あなたたちこそが「今どき」を作っているのではないだろうか。
勘違いするな 〜保育論23〜
よく聞く「今どきの子」。
ませてるなどと言ったりもするが、主に批判的な意味で使われる。
何を言ってるんだと、思う。
江戸時代のような子どもの振る舞いをすれば満足するのか?と、思う。
それじゃ古い、と言うのだろう?
これだけ書けば、いかに子どもを閉じ込めているかわかるだろう。
情報化社会にしたのは誰だ。
キレやすい環境を作ったのは誰だ。
大人が作った不満を子どもにぶつけるな。
今どきの時代に今どきの子どもがいて何が悪い。
淘汰されるものは淘汰されるし、受け継がれていくものは受け継がれていく。そして切り開かれるものもある。
今どきの子どもが異常なのではなく、淘汰されまいと醜くしがみつく大人が異常なのだよ。
勘違いするな。
制度性と無法地帯〜保育論22〜
無法地帯というと、聞こえは悪くなるが、ここで言う「無法地帯」は、子どもの世界(人類にももともと制度性ができる前はそんなものはなかったが)での話だ。
制度性というのは、「善」か「悪」か、「していい」か、「してはダメ」か、あるいは「しなければならない」か。
「権利」や「義務」の上に成り立つ。
簡単に言えば、学校(会社)生活、つまり義務。と、プライベート、つまり権利。
パブリックとプライベートの二項対立が制度性の暮らしなのだ。
ただ、子どもの放課後や休日は、「プライベート」という言葉が実に当てはまらない。
「遊び」は、「パブリック」の対義ではない。
その時そのときの「ひらめき」や、「ときめき」で無造作に時が進む。まさに決まりごとから解き放たれた世界だ。
「遊び」とはそういう時間なのだ。
大人だってお祭りなんかに行けばそういう時間を体験できる。
「二項対立」から解き放たれた時間を過ごせる。
実はこの感覚、時間が重要で、世の大発明なんかはそれこそ「遊び心」から生まれているではないか。
「遊び」から人間は進化発展してきた。
「遊び」こそ人間が人間たるものだ。
大人は子どもからここを学ぶことができる。
「遊び心」を忘れるなかれ。
個人を尊重? 〜保育論21〜
今の時代、「情報化社会」「個人主義」「プライバシー」と騒がれている。
"情報"で全てを管理して、あらゆるものを便利にしていく代償に、それらの漏洩を防ぐために、あらゆるものを閉鎖していく。
お隣さんの名前も何も知らないという事も珍しくない。
「孤独死」という言葉も出てきた。
低所得の家庭が、いろいろ手当なんかを知らないこともしばしばある。
虐待死なんかもよく聞くようになった。
なんだかおかしくないか?
情報化社会、個人主義とは個人に責任を擦り付け、見放す社会、ということなのか?
つまり個人主義とは自閉的思想を産み、今の問題を作り出してはいないか?
この波が子どもに返ってきていると感じているこの頃だ…