ビリヤードと保育の日々

保育しながらの気づきや、ビリヤードのことを綴ってます。

自閉的

今のロシア、中共の東側、そしてその対抗の西側とアメリカのやっていること、やり取りを見れば、いかに自閉的であるか。

宗教や主義、国家といったものにとらわれ、まさに自閉症スペクトラムそのもの。

他愛無く、無条件に関わり合えるのは、最下層の市民だけだということを教えてくれている。

そしてその根本は子どもこそが教えてくれている。

世界は原点回帰が必要なのだろう。

根本的に〜保育論26〜

発達障害を含む障害を持つ障がい者

日本の昔からの風習というか、少し前ではまさかの運動会のかけっこですら侵食された「みんな一緒」。

まぁ、昔は目立たなかったが、「障がい者」という立場が、福祉のためによかれと認識された結果、ある意味目立つようになった。

名前が付いたことで増えたように思うのか、あるいは実際に増えているのかわからないが、特に発達障害が目立つようになった。

どちらの理由かはわからないが、名前が付いたことで区分分けされ、大人目線からいえば対応はしやすくなったのかもしれない。

しかし子どもからすれば、その区分けが、「異物感」を増長したように思う。

「自閉スペクトラム」の人との付き合いにくさなど、「個性」といいながら、差別を認めてしまうような危険性。

なにせ、「多動を持つ子が授業中に動き回るのを容認する」という、なんだか歪な対応がある。

周りからすれば、基本的にみんなに授業態度を指摘するくせに、意味がわからなくなる。

障がい者」を「個性」として捉えようとする気持ちが先走り、「個性」と捉えるルーティンを飛ばしてしまっているように思う。

「なぜ違うのか」の保育教育をさせずして、大人が大人の視点で「受け入れよう」なんてするから、子どものモヤモヤは昔よりあるのでは?と危惧してしまう今日この頃。

言わば「人種の違い」の教育より根本的なものが抜けてはいないかと思う。

一点集中 〜保育論25〜

今となっては「発達障がい」は、(ほぼ)世間に認識されている。

大まかに分ければ、

自閉症

ADHD

・LD

などなど…

基本的には、先天性で遺伝子に異常があったりとするものだ。

過去には、「変わった子」みたいにスルーされてきた。

それが近年、増えてきている。

出産前に検査できたり、医者の診断をもらったり、症状に基準ができたりと、そこも関わるのもあるだろう。もしかしたら食生活の変化もあるだろう。

しかし私は、もう一つの要因があると思う。

 

それは一点集中だ。

一つの愛を全力で受けたり、何かに没頭できたり。

今では情報化社会の名の下で、感覚を一点に集中できない社会にある。

育児に関しても例外ではない。

そこにこそ、この問題の根源が眠っている気がする。

親が子どもに一点集中できない。

子どもが興味関心に一点集中できない。

子どもが成長の過程(特に幼少期)で、この過程を経験できないと、自閉症スペクトラムを背負うことになるのではないか。

私はそう思っている。

つまり後天的にも発達障がいは発生する、ということ。

もしかしたら経済(社会)の成長と、子どもの成長は相反するものなのかもしれない。

どっちだ 〜保育論24〜

「今どきの子ども」で言われるのはゲーム、スマホ、いわゆるエンターテイメントとメディアだ。

 

それらに侵されてしまっているらしい。

テレビニュースで子どもの殺人事件が取り上げられれば、「今どきの子どもは怖い」。

 

果たしてそうなのか?

 

未成年による殺人事件は、件数としては昭和前期〜中期が一番多く、まぁ、割合としては大した差はない。

ベビーブームから子どもが増えた時期に、合わせて件数も上がっている。

割合としては一緒なのだ。

無いに越したことはないのだけれど。

 

ここまで書けば気づくと思うが、子どもが凶悪になったり、おかしくなっているワケではない。

確かに内容としては、昔じゃありえない残忍さのものとかはあるかもしれないが、そこまでなる背景を考えないといけない。

 

とにかく言いたいことは、メディアに操られているのは、とどのつまり「今どきの大人たち」であるということ。

 

情報を疑わず真実を知ろうとしない、あなたたちこそが「今どき」を作っているのではないだろうか。

 

勘違いするな 〜保育論23〜

よく聞く「今どきの子」。

ませてるなどと言ったりもするが、主に批判的な意味で使われる。

何を言ってるんだと、思う。

江戸時代のような子どもの振る舞いをすれば満足するのか?と、思う。

それじゃ古い、と言うのだろう?

これだけ書けば、いかに子どもを閉じ込めているかわかるだろう。

情報化社会にしたのは誰だ。

キレやすい環境を作ったのは誰だ。

大人が作った不満を子どもにぶつけるな。

今どきの時代に今どきの子どもがいて何が悪い。

淘汰されるものは淘汰されるし、受け継がれていくものは受け継がれていく。そして切り開かれるものもある。

今どきの子どもが異常なのではなく、淘汰されまいと醜くしがみつく大人が異常なのだよ。

勘違いするな。

制度性と無法地帯〜保育論22〜

無法地帯というと、聞こえは悪くなるが、ここで言う「無法地帯」は、子どもの世界(人類にももともと制度性ができる前はそんなものはなかったが)での話だ。

  

制度性というのは、「善」か「悪」か、「していい」か、「してはダメ」か、あるいは「しなければならない」か。

「権利」や「義務」の上に成り立つ。

簡単に言えば、学校(会社)生活、つまり義務。と、プライベート、つまり権利。

 

パブリックとプライベートの二項対立が制度性の暮らしなのだ。

 

ただ、子どもの放課後や休日は、「プライベート」という言葉が実に当てはまらない。

「遊び」は、「パブリック」の対義ではない。

その時そのときの「ひらめき」や、「ときめき」で無造作に時が進む。まさに決まりごとから解き放たれた世界だ。

「遊び」とはそういう時間なのだ。

大人だってお祭りなんかに行けばそういう時間を体験できる。

「二項対立」から解き放たれた時間を過ごせる。

 

実はこの感覚、時間が重要で、世の大発明なんかはそれこそ「遊び心」から生まれているではないか。

 

「遊び」から人間は進化発展してきた。

「遊び」こそ人間が人間たるものだ。

大人は子どもからここを学ぶことができる。

「遊び心」を忘れるなかれ。

 

個人を尊重? 〜保育論21〜

今の時代、「情報化社会」「個人主義」「プライバシー」と騒がれている。

"情報"で全てを管理して、あらゆるものを便利にしていく代償に、それらの漏洩を防ぐために、あらゆるものを閉鎖していく。

お隣さんの名前も何も知らないという事も珍しくない。

孤独死」という言葉も出てきた。

低所得の家庭が、いろいろ手当なんかを知らないこともしばしばある。

虐待死なんかもよく聞くようになった。

  

なんだかおかしくないか?

  

情報化社会、個人主義とは個人に責任を擦り付け、見放す社会、ということなのか?

  

つまり個人主義とは自閉的思想を産み、今の問題を作り出してはいないか?

  

この波が子どもに返ってきていると感じているこの頃だ…